吉竹春樹の2022今現在&トレードの裏側!家族や妻(嫁)と子供の情報は?

阪神選手80年代
虎次郎
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今回は阪神で活躍した吉竹春樹の2022今現在やトレードの裏側、家族や妻(嫁)子供の存在などを見ていきたいとおもいます!

吉竹春樹と言えば阪神のリードオフマンとして多彩なバッティングはもちろん守備でも光るモノがありました。

そんな彼が西武にトレードされるまでの経歴やキャリア、そして現在は主に独立リーグや大学での監督業やコーチ業に至るまで、そのライフスタイルや家族(妻・子供)の事などを一斉にリサーチしていきたいと思います。

吉竹春樹の経歴&生涯成績は?

虎次郎
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1978年のドラフト会議、阪神はドラフト外入団という形で、吉竹春樹を獲得しました。

出典https://www.youtube.com/

九州商業高校の出身で、2年生のころに6番打者として夏の甲子園九州大会予選決勝に進出、優勝候補筆頭だと言われていた柳川商業高校を下し、初の甲子園出場を決めました。

結果は惜しくも2回戦敗退してしまうものの、卒業後に阪神がドラフト外指名し、入団することとなりました。

当時、日本ではドラフト制度が導入されていたものの、各球団のスカウトがじかに交渉することにより、入団することが認められていたそうです。

吉竹春樹

この制度により、たとえドラフト指名されていなくても入団する選手もおり、契約金の抑制や戦力均衡の弊害になる恐れがあるとして、1990年に廃止されました。

入団直後、投手として入団した吉竹は打撃投手を務め、1年目を過ごします。

その翌年、内野手に転向し、さらにその翌年には、1950年代に監督を務めていた松木謙治郎にバッティングセンスを認められ、ライトへとコンバートされます。

其の二年後の1983年から、4年連続で通算出場数100試合以上を達成、同じ年には通算打率.330を記録し、主に1番打者として阪神タイガースをけん引します。

吉竹春樹

吉竹春樹

1985年には、球団史上唯一の優勝に貢献し、西武との日本シリーズではほぼ出番はなかったものの、日本一にまで上り詰めました。

其の二年後、1987年に西武へとトレードされ、開幕から2番・レフトの定位置を獲得、レギュラーとして西部の黄金時代を支えます、

しかし、オールスター後の8月にフェンスと人工芝の間に右足が絡まり転倒、右足大腿骨骨折という大けがを負ってしまい、1988年にはわずか12試合のみの出場となってしまいます。

しかし、中日との日本シリーズで最終5戦目で出場、3ベースヒットを放つなど、翌年の復活に期待を持たせる結果になりました。

その通り、その翌年には69試合にレフトとして先発、打率3.14を記録、見事完全復活を果たしたのです。

しかし、1992年、93年は大塚光二の大頭もあり、出場数が激減、その後、1994年にもう一度レギュラーの座をつかむものの、1996年に引退を表明されました。

その翌年からは、阪神にコーチとして復帰し、3年間は二軍外野守備・走塁コーチとして、そしてその後の二年間(2001年、2002年)は一軍外野守備・走塁コーチとして、後任の育成に力を注がれていました。

吉竹春樹

そのあとも、1軍と2軍の守備・走塁コーチを代わる代わる歴任されていましたが、2007年と2008年には1軍チーフ野手コーチに任命されます。

しかし、2008年に8月まで首位を独走していた阪神は、その年に開催されたオリンピックに主力を送り、(矢野、藤川、新井)さらに新井さんは無理をしてオリンピックに出た影響で腰椎骨折が発覚、9月下旬まで戦線離脱を余儀なくされます。

その結果、オリンピック後には試合に勝ちきれなくなり、さらに阪神には9月の大失速(なぜかシーズン終盤の9月になると阪神は勝てなくなるジンクス)がありました。

その結果、2位巨人に最後の最後で首位を明け渡すこととなり、その責任を追及され、当時の岡田監督ともども、吉竹もコーチを辞任することになります。

そんな吉村ですが、生涯通算成績はこのようになっています。

吉竹春樹 生涯通算成績

吉竹春樹 生涯通算成績

吉竹春樹 生涯通算成績

*黄色グラフは阪神在籍時の試合数、青色グラフは西武在籍時の試合数になります。

こうしてみると、阪神在籍時も打率も高く、安定して試合に出ていることがわかりますね。

しかし、現役生活は西武時代のほうが、怪我もあったとはいえ、西武にトレードされた後でも、吉竹は活躍されていたことが伺えます。

吉竹春樹は2022今現在なにやってる?

虎次郎
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2014年まで、吉竹は阪神でコーチを務めていました。

守備・走塁コーチを1軍・2軍問わず歴任し、2008年の岡田政権時代は、一軍チーフコーチを務められていましたが、その年に優勝を逃したことでコーチを辞任、その後2年間はフロントへと回ります。

吉竹春樹/阪神コーチ

さらに、その後は再び2軍監督、そして1軍野手総合コーチを歴任することになりますが、その年を最後に、阪神から姿を消すことになりました。

その後の吉竹は、どのようにして野球人生を送っておられるのでしょうか?

まず、2015年、吉竹さんの姿は福井にありました。

独立リーグであるBCリーグ、その中のチームである福井ネクサスエレファンツの監督としてチームを指揮、その年のシーズンで西地区優勝に導きました。

吉竹春樹/福井監督

残念ながら、チャンピオンシップでは新潟アルビレックスに敗退してしまい、総合優勝は逃してしまったようですが、その翌年も同チームで指揮をとり、後期最下位でありながら年間の勝率で2位の順位となり、前後期を制した石川ミリオンスターズとのチャンピオンシップに臨みます。

しかし、あと1敗で敗退が決まる試合で見事2連勝を飾り、逆王手をかけたまではよかったのですが、その後は雨天中止、予備日も設定されていなかったことから石川ミリオンスターズがそのまま優勝を果たしました。

あくまでリーグ優勝を目標に掲げていた吉竹は、その年限りで辞任を表明。

翌年からは学生野球への指導が可能となる資格を取得し、地元である福岡の日本経済大学硬式野球部助監督を務めることとなりました。

しかし、その翌年である2018年11月、吉竹は母校である九州産業大学付属九州産業高校からのオファーを受け、自身が出場して以来、遠ざかっている甲子園のマウンドに生徒たちを送るために、監督に就任されました。

現在も、その高校で監督を務められているようですが、今のところ、九州産業高校は夏の甲子園出場を成し遂げてはいないようです。

高校球児たちの夏までまだ時間がありますが、今年こそその目標を、達成してほしいものですね!

吉竹春樹が阪神からトレード!その裏側や真相は?

虎次郎
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1985年、阪神タイガースは球団史上唯一の日本一を達成しました。

バース・掛布・岡田の超攻撃型クリーンナップの破壊力はすさまじく、その年の阪神はまさに、一騎当千の活躍をした選手が多数を占めていました。

吉竹春樹/西武トレード

吉竹春樹/西武トレード

しかし、人間というものは中々に欲深いもので、阪神フロントはその優勝に味を占めてしまったのでしょう。

そこから、30代後半というピークが過ぎ去った、実績のある選手をトレードで獲得していくようになります。

後に、これが選手層の高齢化を悪化させ、90年代の暗黒時代の引き金になってしまったのです。。^^:

そのトレード要因として、吉竹にも白羽の矢が立ちました!

出典https://www.youtube.com/

1987年、当時26才であった吉竹は同じく阪神に所属していた23歳のサウスポー・前田耕司とともに西武ライオンズにトレード移籍、阪神フロントはその見返りに33才であった田尾安志を獲得したのです。

しかし、その裏側には田尾の切実な願いもあったのです。

田尾は、その年、当時西武の監督であった森監督の意向もあり、「来年からはもうレギュラーとしてみなさないのではないか・・?」という不安が合ったそうです。

西武は今後、若手主体に切り替えていく中で、自分の出番が減っていく、そう感じた田尾は、編成部長をされていた根本陸夫に、自分をトレードに出すように直談判しに行ったそうです。

まだまだ、自分はやれる、もっと出番が欲しい。

その言葉を受け、根本さんはそれを快諾、可能性として挙がったのが、横浜ベイスターズでした。

田尾もそれならば、と納得したようですが、実際にトレードされた球団は阪神でした。。^^:

このように、トレードというのは決してフロントサイドのみの意向で決まるものでもなく、選手の直談判でも通ることがあるようですね。

その結果、田尾は4年間阪神のチームメイトとしてシーズンを走りぬき、37才で現役を引退することになりました。

その傍ら、西武にトレードされた吉竹は守備の旨さを武器に準レギュラーを獲得、西部の黄金期を支え、1995年までプレーすることになりました!

吉竹春樹の家族構成調査!妻(嫁)や子供の存在は?

虎次郎
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吉竹春樹の家族については、分かっていることは多くはありません。

しかし、2014年に掲載された記事

吉竹春樹/家族

吉竹春樹/家族

出典https://column.sp.baseball.findfriends.jp/

にて、吉竹が家族とのことについてコメントされているものを見つけました。

それは、吉竹が父の日ついて語っているものでした。

父の日について、吉竹さんはそういう記念日は娘さんのほうがよく覚えていてくれていると語っていました。

2014年の掲載なのですが、そのころにはすでに息子のほうは独立し、一人暮らしをされているようでしたが、毎年娘さんのほうからは、何かしらのプレゼントを贈られていたようです。

幼稚園の頃は大好きなお父さんを描いた似顔絵、成人してからなのでしょうか、そのころからはネクタイやハンカチ、キーケースなど身の回りで役に立つものを、送られていたようです。

しかし、その後にどことなく哀愁漂う感じで、こうコメントされていました。

「日本では父の日よりも、母の日のほうが話題になる。カーネーションの印象も強い。それに比べて、父の日は……。」

…いえいえいえ、ちゃんとプレゼントを贈られている時点で、十分幸せな父の日を送られているでしょうと思うのは、私だけでしょうか?(笑

吉竹春樹の守備はヤバかった!

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吉竹は、バッティングに関してはあまり派手さはなく、堅実な打撃と技術の上手さで、確実にチャンスメークする傍ら、足が速く切り込み隊長としての適性もあったのかもしれません。

鮮やかにライン際に流し打ち、ランナーがいれば引っ張って確実に類を進める、そんなバッターでした。

しかし、吉竹の武器はそんな巧みなバッティングだけではありません!

吉竹春樹/守備

阪神時代、吉竹はライトの守備を任されていました。

吉竹が減益だった1980年代、甲子園にはラッキーゾーンが設けられていました。

広く、風も強い甲子園はホームランが非常に出にくい球場として有名ですが、そのホームランを出やすくするため、1991年までフェンスの手前に柵を設け、そこからフェンスまでの間に入ったとしても、ホームランとしてみなされていました。

それは1984年4月、中日との第二回戦の事でした。

6回表、中日の攻撃のことでした。

阪神はその回までの間に3点を挙げ、中日に2点のリードを奪います。しかし、ここで中日はランナーを一人置き、4番の大島を迎えます。

一発が出れば同点という場面、ピッチャーは池田親興でしたが、その投げた球を大島は流し打ち。

逆風だったとはいえ、球はぐんぐんと延び、誰もがラッキーゾーンへ飛び込むことを覚悟したでしょう。

吉竹春樹

しかし、その時にライトを守っていたのは吉竹春樹でした!

なんと、吉竹はフェンスをよじ登りボールを補給、ボールはフェンスの向こうのグラウンドではなく、吉竹のグラブに納まりました!

ボールが落ちなければホームランにはなりません、阪神は吉竹のファインプレーにより、難を逃れたのです。

しかも、その試合は終わってみれば5-4で阪神が勝利を収めていましたから、もしこれが仮にホームランになっていたら…。

阪神では、守備が光る選手と言えば横浜DeNAにFAしてしまった大和が思い起こされますが、吉竹もまた、守備が光る選手だったことは間違いないですね!

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