今回は元阪神で川藤幸三の伝説や解説の面白さ、そして年俸が当時最低レベルだったことをリポートしていきます!
川藤幸三と言えば数々の伝説や逸話がありますが、なんせ解説が関西弁バリバリですので何を言っているのかまるでわかりません。。^^:
現役時代も最低年俸で代打のレジェンドをやっていたので、その人気ぶりはファンからも愛されていた存在でした。
そんな川藤幸三の伝説や解説に関して見ていきたいとおもいます。
川藤幸三の伝説がレジェンド級だった
川藤さんと言えば、解説でもその熱いトークが特徴ですが、その性格は現役時代でも変わらなかったようです。
出典https://www.youtube.com/
1985年、阪神が優勝を決めた際にもベンチからチームを鼓舞し、精神的な支柱として貢献し続けました。
その存在感は監督や主力選手からの信頼も厚く、試合後に川藤さんをみんなで胴上げするほどだったようです。
そんな、チームでもかけがえない川藤さんですが、その破天荒な性格は野球外でも数々の伝説を残されているようです。
その筆頭と言えば、やはり1986年オールスター戦での「幻の二塁打」でしょう!
川藤さんは、その年のオールスターに監督推薦で出場を果たしたのですが、大阪球場(大阪府大阪市浪速区にあった球場、現在はなんばパークスにオブジェクトが残っています)第二戦9回に代打で登場、左中間を深々と破る安打を放ちました。
誰もがツーベースを確信したことでしょう、悠々と2塁まで到達できるような当たりだったので、1塁ベースコーチをしていた、当時巨人に所属していた王貞治さんも、腕をまわして2塁まで走るように指示を出します。
しかし、川藤さんは誰もが予想しないほどに、鈍足だったのです!
そんな川藤さんに襲い掛かったのは、容赦のない中継プレーでした。
ツーベース確実であったはずのあたりは、川藤さんではセカンド手前で悠々とアウトになってしまい、球場は笑いの渦に巻き込まれました。
しかし、川藤さんいわく「ヒット打ってほっとしたら、王さんが腕をぐるぐる回してるから、仕方がなく慌てて走った・・」とのことでした。
しかし、お祭りであるオールスター、アウト一つで大笑いを誘える川藤さんはさすがと、そのプレーは今や伝説となっているようです。
大阪球場の観客が笑いに包まれているのが、非常によくわかります!
しかし、そんな笑いを誘うような珍プレーだけではありません。
1983年のシーズンオフ、実はこの年に川藤さんは戦力外通告の危機に瀕していました。
その時に、川藤さんはとにかく「野球だけはさせてくれ」、と球団に直訴、大幅減俸も受け入れて何とか残留を勝ち取ります。
その話に感動したのが、著名人の阪神ファンの面々でした。
その筆頭である上岡龍太郎さんが、有志を集め川藤さんのために募金を募ります。
その集めたお金を持ち、川藤さんに渡そうとしたところ、「そのお金は受け取れない、気持ちだけいただいておく」と辞退。
更にそのお金を「ファンのために使わせてもらう」と、阪神甲子園球場の年間シートを購入し、ファンを無料招待するという、なんとも男気溢れるエピソードもあります。
そのシートは、人呼んで「川藤ボックス」と呼ばれ、それがまたファンの心をわしづかみにすることになるのでした。
決してただ、しゃべるだけの口煩いおじさんではなく、こういった素晴らしい熱血漢エピソードもあるのが、川藤さんが浪速の春団治たる由縁なんでしょうね。
川藤幸三の解説はコテコテ関西弁で何言うてるかわからん!
川藤さんと言えば、その熱血的なトークが魅力的だと思いますが、そのしゃべり方はというと、関西の訛りがひどく、何を言っているのかわからないということも、あるのではないでしょうか?^^:
出典https://www.youtube.com/
ファイティン、タイガース😊👍
しかし、川藤幸三さんの、解説は
ほんまに、わけわからん🤣🤣訳分からんすぎて、たのしい👍 pic.twitter.com/B4ZXneU3Lk
— 宮崎yasunobu (@gochayan64) May 13, 2021
しかし、実は関西弁とひとくくりにしても、地方によってはまだ聞き取りやすい場合もあります。
川藤さんは福井県の出身です、そして母方の地元は京都で、中学の時に川藤さんは京都へと移住しているので、おそらくその時からの訛りが抜けていないのでしょう。
しかし、関西出身である私は、あれは関西弁の中でも所謂花魁口調、京都訛りが強いのではないかと思います。
京都の訛りは「あらしまへん」や、「~~しまひょか」などと、関西弁の中でもかなり独特なものがあります。
今日も川藤幸三は解説なのに技術論一切無し。根性論のみの解説。
— なっと (@ntt710) August 2, 2013
BS日テレの巨人・阪神戦。川藤幸三は解説なのか?一人ごとなのか?非常に疑問だ。(笑) #hanshintigers
— h.hata (@hiroha3) August 3, 2011
最近はそんな訛りがある方はそこまで多くはないと思いますが、所謂舞子さんという方々は、その訛りを喋っている、というイメージが強いと思います。
田尾安志や江本孟紀、上田次郎や小山正明と言った人たちも元阪神の解説者として活躍していました。
地元である関西の人間でも、時々首をかしげることもあるような方言ですので、あれだけ熱く、少し早口でしゃべる川藤さんの癖も合わせると、確かに聞き取りにくいということはあるかもしれませんね。。^^:
しかしそれでも、川藤さんの解説は面白く、聞いていて飽きないと思いますよ。
それに、聞き取りにくい方言というのはいくつもありますので、それもまた川藤さんの味であると、私は思います!
川藤幸三の年俸(年収)は当時最低レベルだった?
1968年に、高卒ルーキーとしてドラフト9位で入団した川藤さん。
出典https://www.youtube.com/
現役生活は実に18年にも及び、タイガース日本一メンバーの一人でもあります。
高校ルーキーとして1年目から活躍し、2年目に外野手に転向してからは活躍の場を増やしていき、ウエスタンリーグでは、リーグ最多の30盗塁をマークするなど、その足の速さもいかんなく発揮しました。
1973年に一軍に定着し、1975年にアキレス腱部分断裂という大けがを負うまで、主苦い車種のレギュラーとして活躍し続けました。
怪我から復帰後は、その守備の負担を軽減するために主に代打での試合機会が増え、1978年には率.327、1979年には.304、1980年にはキャリアハイの.362、1981年には.304と、4年連続打率三割を記録するなど、適性を見せました。
特に左投手からの打率が高く、当時巨人のリリーフエースであった角盈男からは驚異の通算打率.370、1本塁打を放ち、その相性の良さを見せつけました。
通算のサヨナラ打は6本ですが、それらはすべて対戦相手エース、もしくはリリーフエースからもぎ取ったものでした。
そんな川藤さんですが、そこまでの活躍をしているのであればさぞかし、いい年俸をもらっていたのでしょうね。
なので、調べてみました、川藤さんのピーク時の年俸!
その金額は、なんと……1260万!
…………低くないですか?
狩りにも代打とはいえ、打率3割を4年連続で放っているとは思えない金額です。他の年の年俸も調べ、グラフにまとめてみました。
推定年俸ですが、本当に低い年俸でタイガースを支えていてくれたんですね、素晴らしい選手です。
1980年以前の資料がないのは、何も年俸0で契約していたわけではありません。プロ野球選手には、最低年俸としていくらかの金額が保証されているそうです。
川藤さんが現役時代の時の最低年俸はいくらだったのか、情報はなかったのですが現在の最低年俸は440万円だそうです!
それなのに、川藤さんのために集められたカンパをファンのために使ってくれた川藤さんには、本当に頭が上がりませんね。
■川藤幸三と同時期に活躍した阪神選手一覧!
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川藤幸三の昔の若い頃は意外にイケメンだった!
現在の川藤さんと言えば、もみあげが少し白くなった恰幅のいいおじさん、という感じの男性です。
お腹も少し出てしまっているのですが、不健康そうには見えないとてもお元気なお方なのですが、若い時は意外とイケメンであったそうです。
これは入団時の川藤さんらしいですが、なんとも初々しく、かわいらしい顔をしておられたのですね。
イケメン、というよりもちょっとかわいいという印象のほうが強いかもしれません^^:
こんな顔で、あんな熱血トークが飛び出してくるというのも、なかなかギャップがあって、人気が出るのも解りますね。
実は川藤幸三に兄がいた!川藤龍之輔?
川藤さんは、中学の時に母親の実家である、京都府に養子に出されています。
元々、お母様には3人の兄妹がいたらしいのですが、長男さんは戦争で還らぬ人に、残り二人のご兄弟もアメリカに移住しているため、名家であるお母様の実家(武田家)には跡取りと言える男子がいなかったのです。
そこで、当時中学生だった川藤幸三さんに白羽の矢が当たり、プロ野球の現役時代に奥様と結婚する際に、正式に武田家へと養子に出されたのです。
その川藤さんには、実はお兄さんがいます。
その名前は、川藤龍之輔さん、実はこの方もプロ野球で活躍した、元プロ野球選手でもあります。
川藤龍之輔さんはお亡くなりになられていたのか。川藤幸三さんの実兄。 pic.twitter.com/R2fqmOYN5T
— 渡邉恒雄主筆を崇拝する者 (@takuma1355) July 17, 2021
福井県立若狭高等学校に入学し、甲子園出場は1963年、控え選手として出場を果たしますが、一回戦に横浜高校に敗戦、登板機会はありませんでした。
その後の高校生活でも、甲子園出場は叶いませんでしたが、1965年のドラフト会議、奇しくも弟である川藤幸三さんと同じドラフト9位で、東京オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)へと入団を果たしました。
当時は、球団にとって貴重な左腕投手であったために期待され、2年目の1967年には一軍での初登板を記録、初先発でありながら、のちのミスターバファローズである鈴木啓示三との投げ合いに、見事2安打完封で勝利します。
その後は、ローテーションの一角を担いますが、1969年以降は膝の怪我もあり、成績が思うようにあげられず、千田啓介さんとのトレードで、読売ジャイアンツへと移籍します。
川藤幸三には 幸一と幸二という生き別れた兄が
— 湯きの- (@yukinoshimo) March 19, 2015
その同年、阪神タイガース戦で江夏豊さんとの投げ合い、これにも勝利、セリーグ初勝利をあげますが、その後はほとんど活躍することが出来ずに、1974年に引退されました。
引退後は地元である福井市に戻り、社会人野球クラブチームの福井ミリオンドリームズで監督を務め、そののちに部長へと就任を果たしました。
そして現在ですが、残念ながら2021年3月に亡くなられているようです。。
まだ、読売ジャイアンツに所属していた1970年は、弟である川藤幸三さんも一軍定着とはなっていませんでしたが、もしかしたら川藤兄弟による対戦も、実現していたかもしれませんね!
この記事を書いた人
- どうも、The Tigers管理人の虎次郎です!阪神ファン歴30年以上のコアなオールドファンです。阪神タイガースに関しての事なら私生活と同化しているほどのマニアです。「日本イチの阪神ファン」と公言しているダンカンにも負けない自信があります!とにかく阪神タイガースが好きな方、愛している方、ファンの方には絶対に楽しめる専門サイトになっていますので、ぜひ楽しんで行ってください!
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