『病気で激ヤセ!?』湯舟敏郎の成績&年俸!ノーヒットノーランはヤバかった!

阪神選手90年代
虎次郎
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今回は湯舟敏郎が病気だったのか!?生涯成績や年俸などノーヒットノーラン達成はヤバかった件をリサーチしていきます!

湯舟敏郎が激ヤセだった頃、病気のワードが出現したりしました。ガチで何らかの病を患っていたんでしょうか?

また、阪神時代の成績や年俸などノーヒットノーランで沸かした期待のサウスポーは当時阪神に何をもたらしたのか?この辺をピックしていきたいと思います。

湯舟敏郎が病気で激ヤセの噂が!?なぜ?

虎次郎
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1991年に、阪神タイガースへと入団した湯舟敏郎

出典https://www.youtube.com/

当時の監督の中村勝弘から「大大大戦力!」と評価されるほどの逸材で、二年目のシーズンにはノーヒットノーランを達成するなど、まさに暗黒時代真っただ中の阪神にとって、希望の光とも言えるような選手でした。

10年間の現役生活で60勝を積み上げ、後に阪神の二軍コーチとして阪神に在籍していました。

湯舟敏郎

湯舟敏郎

しかし、当時阪神に所属していた福原忍の調子を悪くしたということでわずか一年で責任を取らされるような形で退団していきます。。^^:

ただ、2012年からは再び阪神の二軍投手として復帰、2年間の契約を完了し、退団していきます。

そのコーチ時代、湯舟さんは現役時代の体重は82kgとなかなかのガタイをしていたようですが、2014年のコーチとしての倹約を満了した際には、なんとその体重は66kgまで落ちてしまっていたのです。。!

湯舟敏郎 激ヤセ

湯舟敏郎 激ヤセ

出典https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/

湯舟敏郎

出典https://kobecco.hpg.co.jp/

湯舟さんのワードに、「病気」というものがあったので、もしやこのやせ方は病的な原因があるのでは、というう淡さがありました。

湯舟敏郎 病気

湯舟敏郎 病気

しかし、実際には湯舟さんには病気になってしまったというニュースはなく、実際にはコーチの激務によりやせた、というのが真実のようです。

ダイエットの経験がある人ならわかると思いますが、2年間で16キロのダイエットは、それほど難しいわけではありません。

これはあくまで憶測ですが、湯舟さんはコーチ時代に相当身体で教えていたのではないでしょうか。

それならば、そこまで痩せていても不思議ではありません。

勿論、ストレスによるやつれという可能性もなくはありません。

ですが、現在の画像を見る限り、かなり体重は元に戻っているのではないでしょうか?

湯舟敏郎の生涯成績&年俸をリサーチ

虎次郎
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興國高等学校ではレフトのレギュラーとして定着し、クリーンナップまで任されていた湯舟敏郎

甲子園の経験はありませんでしたが、奈良産業大学に進学し、2年生の春から一部リーグに昇格、エースとしてチームを支え、秋の大会では優勝を飾り、その年を皮切りに近畿学生リーグ5連覇を達成しました。

湯舟敏郎

4年時には日米大学野球選手権の日本代表にも選ばれ、葛西稔とともに活躍しました。

その後、1990年に阪神からドラフト外れ一位で指名され、入団を決意。

大学リーグ時代に、すでに結婚・お子さんも生まれていたため、「子連れルーキー」として話題となり、中村勝広監督からは「大大大戦力」と評価されるほどの評価を受けました。

その後、1992年にノーヒットノーランを達成、1993年には12勝をマークするなど、左のエースとして期待されますが、その後は貧打により援護がなく、勝ち星に恵まれなかったり、怪我の影響でまともに成績を残せないなど、散々なプロ生活であったようです。。^^:

湯舟敏郎 生涯成績

湯舟敏郎 生涯成績

阪神時代は59勝でとどまっていましたが、移籍した近鉄で1勝を挙げ、節目となる60勝をマークしたようですね。

しかし、やはり暗黒時代の阪神の波に飲まれてしまった感は否めず、また先発でありながら監督の起用により、抑えや中継ぎも任されていたこともあり、その影響も勝ち星が伸び悩んだ結果かもしれませんね。

しかし、そんな湯舟さんには、球団はどのような評価(年俸)をしていたのでしょうか?

湯舟敏郎 生涯年俸

湯舟敏郎 生涯年俸

どうやら、不運のエースに球団は最大限の評価をしていたようですね。

最高額で6000万、特にノーヒットノーランを達成した翌年からはかなりの増額を提示、その後は多少の水準はありますが、概ね5000万程度の年俸は約束していたようです。

湯舟敏郎/ノーヒットノーランはヤバかった!

虎次郎
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1992年、湯舟さんは2年目のシーズンでブレイクを果たします。それは6月14日、相手は広島でした!

この日、連敗中だった阪神タイガースを救うべくマウンドに上がった湯舟さん。

その投球は、まさに圧巻の一言でした!

出典https://www.youtube.com/

結果として、2桁奪三振(11個)、内野ゴロ8個、フライアウト8個という内訳で27アウトをたった一人でとり切った湯舟さん。

許したランナーはわずかに3人で、それぞれ四球が2つ、そしてもう一つはワイルドピッチによる振り逃げでした。

湯舟敏郎 ノーヒットノーラン

湯舟敏郎 ノーヒットノーラン

しかし、勿論その記録は決して完ぺきだったわけではありません。。

若手投手を引っ張るべく、ベテラン捕手であった山田勝彦がマスクを被ることが多かったシーズンでしたが、この日のスタメンマスクは湯舟さんと相性の良かった、木戸克彦でした。

湯舟敏郎 ノーヒットノーラン

危なかったのは最後の打者、正田耕三の時でした。

センターへ抜けようかというあたりは、選手会長に就任していたセカンド・和田豊が追いつき、一塁へと送球、間一髪のところでアウトとなり、NPB史上58人目のノーヒットノーラン達成者となったのです!

しかし、その判定はかなり微妙なものであったようです。

2022年現在では、リクエスト制度により誤審とも呼べる物は少なくなりつつありますが、当時はそんなものはなく、審判の判定がすべてでした。

もっとも、審判もノーヒットノーラン目前だったので、空気を読んだのかもしれませんが…(笑

余談ですが、湯舟さんは9月23日の巨人戦でも5回まで巨人打線を無安打に抑えていましたが、6回に押し出しのフォアボールを与えてしまい失点。

7回には1アウトから佐藤洋に安打を許してしまい、惜しくも無安打記録とはならず、結局味方の援護がなく1安打1失点12奪三振完投でありながら、敗戦投手になっています。

ノーヒットノーランを達成して、人生の運をすべて使ってしまった気がする・・

そんなコメントが、非常に皮肉めいて聞こえてしまうような試合となってしまいましたね。。^^:

阪神二軍投手コーチ時代の評価はどうだった?

虎次郎
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湯舟さんは2度、阪神の二軍投手コーチとして在籍しています。

最初にコーチとして就任したのは2002年、引退した翌年の事でした。

しかし、その罪人履歴はわずかに1年のみ。。

湯舟敏郎 コーチ

湯舟敏郎 コーチ

出典https://hanshintigers.jp/

2002年に在籍していた、福原忍の右肩の違和感に気づけなかったためなのか、2003年には退任してしまいます。

その後、2012年から再び二年契約で阪神の二軍投手コーチとして復帰します。

当時、在籍していた歳内宏明や二神一人の育成を期待されますが、残念ながらどちらも結果を残すことが出来ず、コーチとしてはあまり評価されるような功績はないように思えます。。

しかし、ファンからの評価は可もなく不可もなく、といった感じだったようです。。^^:

湯舟敏郎 コーチ時代評判

湯舟敏郎 コーチ時代評判

出典http://nanj-short.net/

当時、他のコーチ陣がかなり不評だったので、湯舟さんはその陰に隠れていたようです。

しかし、それ以上にほかのコーチ陣の失態が目立っていただけなのか、それともその中でも湯舟さんはまだまし、レベルだったのかはわかりません。

湯舟敏郎

出典https://ibuki.shiga-saku.net/

ただ、コーチとしてはともかく、選手としては暗黒時代の阪神を支えた投手であり、ノーヒットノーランを達成した阪神の投手、ということだけは間違いないでしょう!

全盛期には12勝/左のエースとして期待されたが・・

虎次郎
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1年目こそ5勝11敗、防御率4.66と結果を残すことは出来ませんでしたが、2年目のシーズンに入り、その頭角を現し始めます。

ノーヒットノーランを達成、同月20日には当時10連勝と波に乗っていた巨人戦でも勝利投手となり、巨人の連勝を止めるなどエースへの道を着々と歩み始めているかのように思いました。

しかし、1993年の二けた勝利(12勝)を最後に、暗黒時代と揶揄されている阪神の波に飲まれていきます。。

湯舟敏郎

湯舟敏郎

1994年、左のエースとして開幕投手に抜擢されるものの、打線の援護がなく白星を挙げられず、最終的に5勝7敗(防御率3.05)という結果に終わってしまいます。

1995年も開幕投手として先発ローテーションを支え、自身最多の157奪三振を記録しますが、前年と変わらず援護に恵まれず、更にヒットやホームランを浴びることが増え、前年度と同じく5勝を記録しますが、敗戦は13防御率も3.96と悪化してしまい、徐々に成績を落としてしまいます。

翌年、1996年も5勝14敗と成績を残せず、まさに阪神の暗黒時代を象徴するかのような成績となってしまいます。

しかし、1997年に転機が訪れます。

成績不振を理由に、中村勝広監督が解雇され、新たに吉田義男監督となった阪神では、前年までの不調が嘘のように勝ち星を重ね、最終的に久しぶりの10勝をマーク。

湯舟敏郎

ここから再び左のエースとして活躍が期待されますが、1998年シーズンに入った4月28日に軸足を骨折、この年は結局4試合にしか登板することはなく、その後は満足な成績を残せず、2000年シーズンオフに近鉄へとトレードされていきました。

1992年に、月間MVPを2回取得、1993年には自己最多の12勝をマークするなど、左のエースとして活躍が期待されていましたが、当時の阪神の闇に飲まれてしまい、特別活躍したという訳ではありませんでしたね。。

しかし、ノーヒットノーランを達成するなど、決して平凡な選手ではなかったのは間違いないでしょうね^^

ここへ来て解説者として活躍している彼に今後も注目ですね!

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