今回は元阪神の佐野仙好の今現在活動は解説者?、背番号の意味やフェンス激突が衝撃的だったこと、高校大学など経歴を見ていきたいとおもいます!
佐野仙好と言えば85年優勝時のレギュラーとしても活躍し、現在は解説業やスカウト業などをやっているみたいですね。
彼がフェンスに激突した時の衝撃や背番号の意味、高校大学はどこ出身なのか?経歴プロフィールなども含めて彼の全貌を見ていきたいとおもいます。
佐野仙好の経歴&出身学歴(高校大学)を調査
15年間、阪神タイガース一筋でプレーしたセンコーこと、佐野仙好!
出典https://www.youtube.com/
群馬県立前橋工業高校に入学した佐野さんは、1968年の高校二年の時にサードとして夏の甲子園に出場を果たします。
智辯学園のエースであった上田容三に完封負け、その翌年には北関東大会準決勝までコマを進めますが、そこで敗北。
高校時代、輝かしい成績は収めることが出来ず、もっと己を磨くためにと、学問の道へと進みます。
中央大学へと進学した佐野さんは、やはりそこでも野球道を邁進。
東都大学野球リーグに出場した佐野さんは、3度の優勝を飾り、同期入学した藤波行雄(元中日)とともに、1年生の春季リーグからレギュラーとして出場を果たし、在学中はリーグ全試合出場を果たすほどでした。
その才能は目を見張るものがあり、1970年秋には、リーグを通じてもたった4人しかいない、1年生での首位打者にも輝くほどです。
1973年、4年生になった佐野さんは全日本大学野球選手権大会に出場、エースとして田村正雄(太洋ホエールズ・南海ホークス)を有した中央大学は、決勝戦で見事、愛知学院大学を破り、優勝を飾りました。
更にその同じ年に開催された、第二回日米大学野球選手権大会にて、日の丸を背負ってアメリカと戦いますが、2勝5敗と結果を残すことはできませんでした。
在学中の成績は99試合出場・350打数99安打、打率.283、7本塁打、39打点。
2度のベストナインにも選ばれるという実績を伴い、1973年のドラフト会議に臨みました。
結果は、阪神タイガースがドラフト1位で指名。
こうして、15年にも及ぶ阪神でのプロ野球生活が、幕を開けたのです。
佐野さんが活躍し始めたのは、プロの世界に入って2年後の、1975年からでした。
掛布雅之との併用で、三塁手として53試合に出場、その翌年の後半からは、レフトの守備へとコンバートされ、掛布とのライバル関係が、佐野さんの現役生活の基本となりました。
タイガースを彩った名バイプレイヤー②佐野仙好
中大からドラフト1位で入団する。掛布とは同期入団だった。ヘルメットを深く被り、独特の片手でのフォロースルー。試合終盤に滅法勝負強かった。1981年初代の最多勝利打点に輝いた。 pic.twitter.com/pL9LDiKPww— 山野浩一 (@koichyamano) July 4, 2022
1977年には、開幕からレフトとして期用、とある事故で戦線離脱を余儀なくされるものの、7月には戦線復帰。
規定打席に到達することはなかったものの、打率.305と結果を残すことが出来ました。
1979年には、藤田平の故障もあって一塁手へと再びコンバート。
初の規定打席にも乗り、打率も.300と非常に好調でしたが、広島カープが優勝を決めた10月6日の試合で、最終打者として登場していました。
(結果はセカンドライナー、走者が飛び出しており、ダブルプレーで試合は終わりました)
阪神が優勝を決めた1985年、その年も佐野さんはレフトのレギュラーと試合に出場、優勝決定戦である10月のヤクルト戦で、優勝を決定づける犠牲フライを放つものの、日本シリーズでは11打数無安打と結果が出ず、第4戦以降は長崎啓二に出番を奪われ、出場機会はありませんでした。
その後、徐々に出番が少なくなっていった佐野さんは1989年に現役を引退。
引退に際して、佐野さんは掛布の名を挙げ、「あいつのおかげでここまでやれた。あいつに負けたくないという気持ちがあったから、必死になれた」とコメントを残しました。
佐野仙好の現在は解説者?スカウト辞めた?
引退後、佐野さんは数々のコーチや球団関係者として、阪神タイガースに留まります。
1990年の1年間、二軍育成コーチとして後進の育成に努めた後は、球団本部編成部のスカウトとして91年から93年、95年には一軍守備・走塁コーチを勤めていました。
さらに、1,996年から97年までは一軍打撃コーチとして暗黒時代、低迷していた阪神の打撃陣の立て直しを図り、98年には編成部の関東地区担当スカウトに復帰しました。
佐野仙好 現在阪神タイガース西日本編成部統括部長 #99ann
— 鈴木官房長官 (@S_kanbochokan_) August 27, 2015
その人脈の広さで、吉野誠、狩野恵輔、藤田太陽、中村泰広と、多岐にわたり視察から入団まで携わり、スカウトとしての仕事を果たしました。
そのお仕事も、2020年までのことで現在は退職。
翌年の2021年からはスカイA・Tigers・ai(ネット配信「虎テレ」)の野球解説者を務められているようです。
佐野仙好の背番号9は優勝時影のMVPだった
「肌寒く・勝利の中で・ふるえけり」1985年、10月16日に阪神が優勝を決めたその日の号外で詠まれた川柳です!
しかし、実際にはこの日、阪神タイガースは勝利を収めたわけではありません。
9回表、阪神は5-3でヤクルトに2点のリードを許していました。
この日、勝つか引き分けをすることで、実に21年ぶりの優勝を飾ることが出来た阪神ですが、この日はおそらく、誰しもが敗戦を予期していたでしょう。
阪神は6回表、3番のバースの2ランホームランで2点のリードを奪いますが、その裏の攻撃に倍返し、と言わんばかりに4失点、逆転を許してしまいます。
しかし、野球は9回3アウトを取るまでわからないとはよく言ったもので、9回表。
まず、反撃の口火を切ったのは、主砲・掛布でした。
これで1点差、ヤクルトの本拠地である神宮球場は、「もしかしたら…?」という雰囲気に包まれ始めます。
その後3塁まで走者を進めた阪神、その打者には背番号9、佐野さんでした。
あと1点、ここで得点を奪うことが出来れば、阪神は優勝にぐっと近づくことが出来ます。
そして、ヤクルトの投手が放ったボールを、佐野さんはしっかりと外野へとはじき返し、同点の犠牲フライを放つことが出来ました!
その当時、プロ野球には”3時間20分”という時間制限がありました。
その時間を過ぎると、次の回には進まないというルールが設定されていたため、10回途中の時点でその制限時間が過ぎていたため、10回裏のヤクルトの攻撃で、試合終了が宣告されていました。
その結果、佐野さんが放った犠牲フライが、阪神優勝を決定づける打点になったのです。
佐野仙好の激突が衝撃的!フェンスで死にかけた男
1977年、4月のことです。
佐野さんは、その日の試合にレフトとして出場していました。
その球場は川崎球場、現在は富士通スタジアム川崎という名前になり、大改修が行われましたが、その当時は外野フェンスはコンクリートむき出し、非常にボロ……もとい、劣悪な球場であったようです。。
そんな球場で行われた、阪神タイガースvs大洋ホエールズ。
阪神が1点リードした状態で9回裏の太洋の攻撃時に、その事件は起きました。
清水透(大洋ホエールズ・西武ライオンズ)がはじき返した打球はぐんぐんと伸びるものの、その方向には佐野さんがスタンバイしていました。
しかし、その球は風にも乗って予想以上に伸び、佐野さんはキャッチするもののフェンスに激突。
牧原大成選手は大丈夫だろうか。軽症である事を願う。
しかし…現代のラバーフェンスでもあの衝撃。昔のコンクリートフェンス時代はもっとヤバいな。フェンス際のプレーとか恐すぎるよ。(画像)1977年4/29の大洋vs阪神。佐野仙好選手(阪神)は守備時にコンクリートフェンスに頭をぶつけ… pic.twitter.com/3Fdxiq3juo
— Larry Spencer (@wildrunner_2510) October 9, 2021
先にも述べたとおり、川崎球場のフェンスはコンクリートがむき出しになっており、非常に硬くできております。
そんなフェンスに、佐野さんは頭から激突してしまいました。
強く頭を打った佐野さんは、その場で気絶。。
左翼塁審の田中俊幸が、佐野さんのただならぬ雰囲気を察し、まずは捕球を確認してアウトを宣言。
その後、担架を要求して佐野さんを運び出します。
センターを守っていた池辺巌(ロッテ・阪神・近鉄で活躍した)も、同様の要求をしたため、選手・コーチ全員が駆け寄り、運ばれていく佐野さんを見送りました。
(なお、この際に大洋の野口はタイムがかけられていないので、1塁からホームまで全力疾走、1塁から犠牲フライで得点を奪った唯一の記録となります)
佐野さんの診断結果は、頭蓋骨陥没骨折。下手をすれば命に関わる大けがでした。。
その後、この事件を受けた日本プロ野球機構(NPB)はセントラルリーグ、およびパシフィックリーグに所属している全12球団の本拠地球場すべてに、フェンスラバーを張るように指示。
選手の怪我を防ぐフェンスラバーは、佐野さんの身体を張ったプレーにより、義務化されることになったのです。
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佐野仙好のバッティングスタイルや守備範囲は?
佐野さんは、現役時代は基本的に早打ち傾向があったようです。
積極的に勝負を仕掛け、その生涯打率は.273の成績を残されています。
ただ、その傍らで四球がやや少なく、あまり出塁率というのは高めではなかったようです。
ただ、それでも出塁率.323と、それなりの数字を残しています。
そして、その守備範囲ですが、ルーキー時代から暫くの間はサードを掛布と競っていたこともあり、本職はサードなのだろうとは思います。
しかし、その後レフトにコンバートされ、1977年にはフェンスに激突しながらも飛球をキャッチ、その度胸の良さも垣間見せます。
その後も、ファーストやライト、時にはショート(これはごく短い間でしたが)も経験、内外雇わずどこでも守れる、まさにユーティリティープレイヤーでした。
しかも、併殺が極めて少なく、その捕球の上手さと安定したスローイングも兼ね備えており、攻守そろった優れたプレイヤーだったのは間違いないですね!
この記事を書いた人
- どうも、The Tigers管理人の虎次郎です!阪神ファン歴30年以上のコアなオールドファンです。阪神タイガースに関しての事なら私生活と同化しているほどのマニアです。「日本イチの阪神ファン」と公言しているダンカンにも負けない自信があります!とにかく阪神タイガースが好きな方、愛している方、ファンの方には絶対に楽しめる専門サイトになっていますので、ぜひ楽しんで行ってください!
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