今回は元阪神の藤田平の現在や息子(子供)は勝也と言う名前?嫁(妻)や家族は?守備とバッティングは篠塚レベルだった話をしていきます!
藤田平さんと言えば阪神歴代の中でもトップクラスの打者ですよね?
そんな彼の現在活動範囲や、息子は勝也と言う名前なのか?嫁(妻)や家族関係など、守備でも光った藤田平の真骨頂やバッティングは篠塚と同レベルだったその天才肌の打撃論などをピックしていきます!
藤田平の通算成績や生涯年俸を調査
藤田平、阪神タイガースのファンの中では、この名前を知らない人はおそらくいないでしょう!
出典https://www.youtube.com/
ルーキー時代の66年からすでに一軍に抜擢され、三塁手や遊撃手として39試合に出場、そしてその翌年である67年には遊撃手のレギュラーを獲得、二塁手であった吉田義男とのコンビでチャンスメーカーとして活躍。
その年には打率.291、リーグトップとなる154安打を放ち、初のベストナインにも選出されるなど、ブレイクを果たします。
更に、71年には自己最高記録である28本ものホームランを放ち、三番打者として、欠場した田淵幸一や、その当時の助っ人外国人であったフレッド・バレンタインの穴を埋める活躍を果たします。
しかし、自身は好調と不調の波が激しく、第一打席でヒットが出ればほぼ確実に猛打賞を放ったと思えば、チャンスで回ってきたときには力み過ぎたのか、ポップフライであっけなくアウトになったりと、非常アバウトな選手であったようです。。^^:
そのため、規定打席をクリアしての打率3割を記録したのは、現役生活でわずか4度しかなかったそうです。(ちなみに、藤田さんの現役年数は初年度も含めると18年間です)
70年代、阪神タイガースの中では藤田平、江夏豊、池田純一、谷村智啓の4人を総称して、「若虎四天王」と呼ばれていました。
74年、シーズン後半に怪我をしてしまった藤田さんですが、それでも規定打席には到達、自身初の規定打席到達3割(.302)を記録、その翌年には208打席連続無三振の日本記録を樹立!
その年からは助っ人であったハル・ブリーデンの怪我もあり、主に一塁手での起用が多くなり始めました。
しかし、79年は守備の際に左足太ももの肉離れを起こしてしまい、その怪我の具合があまりよくなかったことから、当時監督であったブレイザーが激怒、同年7月に渡米し、けがの治療に専念したことによりそのシーズンはほとんどを棒に振ってしまいます。。
ただ、その治療の際にメジャーリーグの試合を観戦した藤田さんは、ファンも野球を楽しんでいる光景に、非常に衝撃を受けたそうです。
その後、脚に不安を抱えながらも80年に復帰、翌81年には打率.358を叩き出し、見事カムバック賞(怪我や病を負った選手が復活し、活躍した際に送られる賞です)に選ばれます。
その年も、藤田さんはチーム内で結膜炎が流行していたことにより20試合ほどを欠場、最終日のダブルヘッダーでの規定打席到達でした。
そして、83年。この年の5月3日に、藤田平は巨人の角三男から通算2000本安打を達成、阪神の生え抜きでは初めてとなる、名球会入りを果たしました!
そんな藤田平は、現役時代にどのような成績を残されたのでしょうか?
現役生活が長いので、上半期と下半期の2分割で、その成績をグラフにまとめてみました。
まずは前期の成績です。入団一年目から10年間の成績は、このようになっています。
こうしてみると、上半期はコンスタントに3割近い打率を残されているようです。
それでは、下半期の成績を見てみましょう。
下半期も、安定した成績を残していますが、やはり目を引くのは81年の成績でしょう。
この年に、藤田さんは首位打者とカムバック賞を獲得しています。
また、1979年の試合数が極端に少ないのは、ブレイザー監督の助言によってアメリカに渡っていたためですね。
グラフにしてみても、非常に安定した成績であったことが伺えます。
打率を下げたのは66年の1年目と、88年の2度のみで、残りは安定した成績を残しておられるようです。
ならば、生涯年俸も安定していただいていたのでしょうか?
調べてみたところ、藤田さんの年収の情報は3年間のみでした。
一つは80年、その時には1360万だった年収ですが、首位打者を獲得した翌年の82年には3000万までアップしています。
やはり、球団としても成績を残した選手にはそれなりの報酬を約束せざるを得なかったのでしょうね。
その翌年も、これは期待の表れなのでしょうか。
3200万という高額な金額で更改を終えていたようです!
しかし、その翌年に藤田さんは引退をしていますので、果たしてこの金額は妥当であったのかどうかは、正直微妙な金額ではないでしょうか。。^^:
藤田平の現在活動はいかに
藤田平は、遠井吾郎、藤井栄治と並んで「阪神三奇人」という、なかなかに珍妙な集団に一人であったとも言われています^^:
おとなしくて無口、しかものちに非常にポーカーフェイスで何を考えているのかわかりにくいという印象もあったため、監督時代には新庄と折り合いが悪く、新庄の引退騒動にまで発展、わずか一年で監督業を解雇された経歴も持ち合わせているようでした。。
そんな藤田平ですが、2022現在はユーチューブなどで活動をされていたのは確認できました!
出典https://www.youtube.com/
引退後は、朝日放送やサンテレビでの解説者を、デイリースポーツでは野球評論家として活動し、あのバックスクリーン三連発の時にはテレビでの解説者として、そして21年ぶりの優勝を決めた際にはラジオ番組の解説者として立ち会ったそうです!
阪神・木浪君のバッティングフォームを藤田平さんが解説してます。
無駄のないスイングとの事。【藤田平氏打撃フォーム分析】阪神ドラ3木浪、無駄なく鋭い 変化球、低めに対応(デイリースポーツ) https://t.co/pZLDUQUg3H
— てる ☆ (@teru_hanshin) March 19, 2019
■元阪神で現在解説者一覧!
⇒『名言⇒レジェンド級!』江本孟紀の引退理由と解説が爆笑すぎる件!
⇒『現在自宅は芦屋?』田尾安志/性格は短気?解説の評判が悪い?
⇒【2022今現在⇒焼肉屋オーナー?】湯舟敏郎/お店の味や評判&料金はいかに?
95年、まだ阪神が暗黒期であった当初は二軍監督として阪神に再び入団、1月に起きた阪神淡路大震災で自宅が半壊する被害を受けると、選手寮である虎風荘にて、若手選手とともに生活をするのですが、あまりに食事が貧相すぎて驚いたそうです。
そして、その年の7月にとある事件が勃発します!
当時、阪神の選手の間では遅刻癖が横行していました。
藤田平はこれを是正するために「選手同士で何か規定を創れ!」と提案したところ、選手のほうから遅刻した時間だけ正座をするという提案がなされました。
藤田さんはそれを実行したところ、練習に遅れてきた新庄剛志を正座させた、と事実が歪曲して報じられてしまい、それが所謂「新庄剛志正座事件」として、世に広まったのです!
出典https://www.sponichi.co.jp/
その日、新庄さんは足の不調による別メニューであったそうですが、藤田さんに伝えられていなかったというふうに記されてありました。。
その後も、新庄とは何かしらの件で折り合いがつかなく、前監督の中村勝広が解任され、途中から代行監督を務めていた藤田平が正式に監督へと就任した際も、新庄は「阪神を辞めたい・・」とトレード志願、挙げ句の果てには「センスがない・・」と引退をほのめかすような発言までしていたそうです^^:
出典https://www.sanspo.com/
その騒動は3週間ほど続き、結局新庄は引退を撤回したそうですが、そこまでして藤田さんを嫌っているとは、今の新庄のポジティブさからは想像できませんね。。
監督昇格後は、参謀役のチーフ兼バッテリーコーチに柴田猛、外野守備走塁コーチには小林正之を招聘、高橋重行を一軍投手コーチへと昇格させ、2軍監督時代から目を付けていた、オリックスから平塚克洋を金銭トレードで獲得するなど、阪神の再建に徹底的に取り組みました。
その結果、藤田さんは「鬼平」の異名をとる熱血指導者として、広く知られていくようになるのです。
その一年後に藤田さんは成績不振と求心力の欠落により解任され、97年からは再び解説者として復帰します。
しかし、実際の解任理由を当時阪神の常務であった野崎勝義はこう語ります。
采配以外で藤田さんの評判はよろしくはなかった。営業部からも選手からも周辺からの反発が藤田さんには致命的だった。
当時のマスコミによる監督降ろしはあまりに痛烈で、首位打者をとったほどの藤田さんだけに、技術は理論は卓越しており、采配にもそこまで批判はなかった。何しろ背広組からの評判がよくなかったのが原因だろう。
2005年、藤田さんは村田兆治が設立した「対馬まさかりドリームス」に参加し、全国の野球少年への指導に明け暮れました。
その合間に、1年だけでしたが佐川急便野球部の監督も務め、2008年にも奥さんの勧めもあり、地方リーグである福井ミラクルエレファンツの初代監督に就任。
選手寮の眼と鼻の場所にあるアパートで過ごし、毎晩のように選手の育成に励む熱血指導者ぶりを発揮しますが、チームは最下位に転落、シーズン終了後に退任されました。。^^:
その際に、在任中の給与が一部支払われていないとして、神戸地方裁判所に提訴を起こしています!
そして2009年、故郷である和歌山に戻った藤田さんは関西独立リーグである紀州レンジャーズの初代監督に就任、前期は3位と健闘するものの、高貴でやはり最下位に転落してしまい、その年限りで退任。
監督としては、あまりいい成績を収めることはできなかったようです。
しかし、2020年の時点で藤田さんはたびたび、ネット上のニュースインタビューに姿を見せています。
それらを見る限り、まだまだ現在もお元気なようですね^^
藤田平の息子(子供)は勝也?嫁は藤田幸子?
2018年のニュース記事で、夫人のことを掲載している記事がありました。
現役当時、毎晩のように甲子園口界隈で素振りをする藤田さんの隣で、夫人である幸子さんは藤田さんのフォームチェックをしていたそうです。
出典https://www.sankei.com/
きっかけは、ただ一人で振っていたら寂しいだろうということだったそうです。
しかし、野球をしたこともない幸子夫人は、ある日『昨日の試合では、もっとバットは下から出ていた』というアドバイスを投げかけたそうです。
何度もスイングを見ているうちに、幸子さんは藤田さんのフォームを完全に覚えてしまったようで、その日からずっと、幸子さんは藤田さんの専属バッティングコーチとして付き添っていたそうです。
いつもと違うことを、奥さんが的確に指示してくれたからこそ、83年に、阪神生え抜きとして、初の2000本安打を達成したのかもしれませんね。
更に、幸子さんは実業家としての才能もあったようで、ある日に藤田さんはバツの悪そうな顔をしてソファに座り、そんな藤田さんを無視して、幸子夫人は宝石商と取引をしている姿を、貴社が目撃したそうです。
なにかあったのか?、と記者が問いかけると「夫婦喧嘩をした」と、藤田さんは答えたそうです。
布陣はどうやら、夫婦げんかの後には必ずジュエリーを買うようにしていたようで、それを仕返しにしていた、となるとそのお金の出どころはやはり、藤田さんの年俸であったのでしょうね(笑
ともかく、その商談で目を肥やした夫人は本物の宝石商となり、いくつものマンションを経営する実業家にまで上り詰めることになります。
そんな奥さんですが、とある日に嬉しそうに電話をしてくることがあったそうです。
幸子夫人の声は、非常に弾んでいたそうです。
息子さん、勝也さんは現在どのようなお仕事をされているのかは不明ですが、その日を境に、バッティングコーチは奥さんから息子さんへと代替わりしたようです。
家族による支えがあるからこそ、阪神史上最強の遊撃手、と揶揄されるのでしょうね。
藤田平の守備はピカイチだった!
藤田さんは語ります、「以前の阪神はもっと守備が旨かった・・」、と。
現在の時点で4年連続でチームのエラー数がリーグワーストである状況に対し、藤田さんは嘆きのコメントをされています。
守備https://www.nikkansports.com/
現在は3度のグラウンド整備が行われるのに対し、藤田さんの時代は7回に1度だけ、グラウンド整備が行われるのみでした。
吉田さんをはじめ、守備の名手と言われる選手が何人もいた時代、阪神のシーズンを通してのエラー数は藤田さんのコメントを見る限り、おそらく現在よりもはるかに少なかったのでしょう。
また、守備を示す数値であるRRFという数値があります。
これは、端的に言えば守備による活躍を得点としてわかりやすく計算したものになります。
藤田さんの場合、66年から68年までの間こそ、マイナスとして計算されていますが、その翌年の69年にはその数値は一気にプラスへと転じています。
その数値は驚異の31点!
つまり藤田さんは守備で相手の得点を1シーズンで31点も阻止しているということになります。
その証拠に、藤田さんはダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を3度受賞しています。
全盛期の久慈照嘉にも匹敵するほどの守備力でした!
野球において、守備の全盛期はだけ期の全盛期よりも先に来ることが多いそうですが、藤田さんもそれを体現するかのように、74年を境に下降に転じ、79年以降は一塁手へと転向しています。
しかし、全盛期であった時の遊撃手での守備の貢献度はすさまじく、当時日本最強の遊撃手であった、という言葉に偽りはないでしょう。
当時、阪神を盛り上げたのはまさに藤田平や小林繁と言った面々ですよね!
藤田平のバッティングは篠塚と首位打者を争うほどだった!
藤田平さんと言えば、阪神史上最強の遊撃手としての話が必ず持ち上がります。
2000本安打を達成し、81年には打率.358を記録、カムバック賞と同時に首位打者を獲得しています。
阪神ファンをはっきり自覚したのは、巨人戦で一、二塁間をライナーで抜くヒットを量産する藤田平のバッティングに惹かれたのが最初。それまでも、吉田義男や村山実などを見ていたとは思うが、周りの大人が褒めてる人、っていう受け止め方だった。これ以前は、野村・広瀬・穴吹らの南海ホークスのファン
— あきーら:カジュアル系 (@tsubuyakimasse) April 10, 2021
懐かしいね。藤田平さん。確かにシェアなバッティングで格好良かった。
江夏、田淵の頃の阪神だ。— ターちゃん06 (@06_aoki) September 12, 2017
しかし、その下を見ると、当時巨人でプレーしていた篠塚さんがいます。
其の81年の打率は.357、何とたった一厘差だったのです。
出典https://www.sankei.com/
その年、先に全日程を終えていたジャイアンツの篠塚は、打率.357を記録し、藤田さんと首位打者を争っていました。
そのあとの試合、81年10月12日の大洋戦でした。
藤田さんは第三打席、センター前にヒットを放った藤田さんは、この時点で打率.358を記録、首位打者のタイトルを確実なものにしたのです。
首位打者を獲得した藤田さんは、その後のインタビューで
とのコメントを残しています。
しかし、皮肉なことにその3年後、藤田さんはタイガースを去ることになってしまいました。
一度も優勝、日本一を経験することがなかった藤田さんですが、その野球人生に後悔はなかったことでしょうね^^
この記事を書いた人
- どうも、The Tigers管理人の虎次郎です!阪神ファン歴30年以上のコアなオールドファンです。阪神タイガースに関しての事なら私生活と同化しているほどのマニアです。「日本イチの阪神ファン」と公言しているダンカンにも負けない自信があります!とにかく阪神タイガースが好きな方、愛している方、ファンの方には絶対に楽しめる専門サイトになっていますので、ぜひ楽しんで行ってください!
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