遠井吾郎の伝説や掛布との関係!ランニングホームランがエグい!

阪神選手60年代
虎次郎
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今回は元阪神の遠井吾郎の伝説や掛布との関係、ランニングホームランがヤバかった件について調査していきます!

ガチの阪神ファンであれば遠井吾郎はご存じでしょう^^

彼の伝説や生い立ちなど経歴エピソードや、ミスタータイガース掛布雅之との意外な関係性、さらに彼自身があり得ないランニングホームランをぶちかました事など、まさに伝説に残るレジェンドだったことは多くのオールドファンに今も刻まれているでしょう。

今回はそんな遠井吾郎の事に追求していきます。

遠井吾郎の生い立ちや経歴学歴調査!

虎次郎
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1939年の12月、当時の事を想うとおそらく、とても寒い空の下だったことでしょう。

出典https://www.youtube.com/

山口県の片隅で、とある男の子が産声を上げました。

戦争を乗り越え、その男の子はすくすくと育ち、柳井高校へと入校を果たします。

その男の子は3年生の時、春の甲子園に出場を果たし、二年生にしてエースを任された友歳を擁し準々決勝までコマを進めますが、強豪校である早稲田実業高校に敗北してしまいます。

遠井吾郎

ただ、その早稲田実業はその年、とある男を擁していたのです。

その男の名前は王貞治、のちに「世界の王」と呼ばれるようになる彼に、その男の子は投げてはタイムリーを打たれ、投げられては3三振と完敗。。

しかし、この春の大会から三球団以上(巨人・阪急・西鉄)から注目されていたその男の子でしたが、お兄さんと早稲田大学で野球部の監督をしていた森茂雄からの勧誘を受け、進学が決まっていたため、その時はまだプロになる可能性は低かったように思います。

高校在学中、その男の子は八幡製鐵に就職が内定していたのですが、1958年、男の子が19歳の時の9月、当時はまだ大阪タイガースという名前だった、阪神のスカウト、河西敏雄の熱心なラブコールに、柳井高校を卒業したその同じ年についにその男の子はタイガースへと入団することになったのです。

超高校級の打力と称され、奇しくも入団の一年後に引退した初代ミスタータイガースと言われた藤村富美雄さんの後継者として期待された男の子は、ついに20年にも上るプロ野球人生をスタートさせました。

その男の子の名前は、遠井吾郎!

数々の伝説と、当時のお茶の間をそのプレーで楽しませてくれた「仏のゴローちゃん(本人は、それではプロ野球選手は務まらないから、自分は鬼のゴローちゃんだと思っていると言っていたらしいです)」と呼ばれた、その人です。

遠井吾郎の伝説がヤバい・・

虎次郎
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数々の伝説を世に残した遠井さんですが、やはりその語られるべき伝説は球界随一の酒豪であったことでしょう。

遠井吾郎/伝説

遠井吾郎/伝説

出典https://www.youtube.com/

北新地でウィスキーをグラスに注ぎ、ストレートで煽る姿もたびたび目撃され、朝まで飲み続けた挙句に遠征バスに乗り遅れることや、朝まで飲んでそのまま球場へ直行することもあったとか。。^^:

ユニホームを忘れ、他人のユニホームで出場することもあったあたり、相当お酒が大好きな性格だったんでしょう。

お酒は呑んでも吞まれるな、とはよく言ったものです。

そんな遠井さんですが、中でも大のビール党だったようです。

後輩であった川藤幸三や、田淵幸一なんかはよく試合後には飲みに連れられていたこともあったとか。

しかし、そんな遠井さんですがその口癖は「飲んだ次の日には打てよ!」だったそうです。

遠井吾郎/田淵幸一

川藤幸三や田淵幸一さんいわく、「明日は打てます!」と答えたらそのまま飲みに連れて行ってもらえるが、「打てるかどうかわからない」と曖昧な返事をしてしまうと、そのまま置いていかれることもあったそう。。^^:

そのおかげで、田淵幸一は

「明日も誘ってもらえるように頑張る気力になった」

川藤幸三は

「明日への酒だった」

と、かなり遠井さんに影響されていたことが伺えます。

ただ、飲むときは帰り際のあと五分、が1時間になり、今度はもう一軒になり、結局気づいたら朝になっていた、なんてこともあったそうです。

遠井吾郎/田淵幸一/川藤幸三

出典https://www.sponichi.co.jp/

通勤時のサラリーマンが出社する中、ホテルへと帰路についていた川藤幸三は、「これはえらい世界に入ってしもうたなぁ・・」と思ったそうです。

また、1971年、3月16日のことでした。

遠井さんを含む4人(田淵、山尾、藤田平)で食事をした際、羽目を外しすぎたせいで門限である10時までに帰ることが出来ず、真夜中に旅館に帰った際に当時の兼任監督であった村山実「帰れ!」とどやし付けられ、大目玉を食らった際のことです。。^^:

田淵さんらはその剣幕に青くなり、必死になって謝っていたそうですが、遠井さんだけはどこか飄々とした態度で、荷物をまとめ本当に帰ってしまったのです。

とはいえそこは遠征先、土地勘もなくすぐに帰ってくると思われていたそうですが、寝ても覚めても帰ってこない遠井さん。

球団関係者やマネージャーが大慌てで探しに行ったところ、なんと駅前の深夜喫茶で眠りこけていたそうです。

何とか全員で引きずりながら帰り、(遠井さんは結構な巨漢であったとか)それ以降村山さんも、門限にはあまり口煩くすることはなくなったそうです。

そんな遠井さん、どうやら二日酔いで試合に出たこともあるようです。

遠井吾郎

 

 

普通ならば余裕でツーベースとなる当たりも、巨漢である遠井さんではギリギリ、ヘッドスライディングでなんとかツーベースに。。

しかし、そのあと事件は起こりました!

なんと、二日酔いで頭がふらついていた遠井さんはヘッドスライディングをした際にリバース!

慌てて砂で隠し、何とか取り繕うものの審判も、対戦相手だった二塁手も笑いをこらえるのに必死だったそうです。

私だったら、きっとこらえきれずにタイムをかけて大笑いしていたかもしれませんね。

とにかく、お酒関係や体格でいろいろと話題に事欠かない、だけど飄々としたムードメーカー的な存在だった遠井さんですが、2005年の6月、肺癌のため65歳で亡くなってしまいました。

2005年と言えば、岡田監督率いる阪神タイガースが2年ぶりの優勝を決めたときですね。

東京の病院で息を引き取られた遠井さん、ご冥福をお祈り申し上げます。

遠井吾郎と掛布との関係が深い・・

虎次郎
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遠井さんの生き様に影響された人物は、多数に上ります。

かねてから親交が深く、互いのバッティング技術を評価し合っていた田淵さん、「野球も人生の自分の師匠や」と述べられた川藤さん、10歳以上年が離れていても、「ゴローちゃん」と呼び、慕っていた江夏豊。

そして、3代目ミスタータイガースと呼ばれている掛布雅之もまた、遠井さんに影響を受けた一人でもあります。

掛布雅之

阪神の中で、ルーキーだった頃から世話をしてもらい、野球とは何かということを遠井さんから教わった掛布雅之。

そんな二人を物語るエピソードは、掛布さんが3年目を迎えた1976年の序盤にありました。

勝負強さが持ち味で、代打の通算打点を96打点まで積み重ねた遠井さんに、掛布さんは食事に誘われたそうです。

何のことはない、特に何かを話したわけではなかったようですが、掛布さんはその遠井さんの姿から、プロでやっていくための姿というものを学んだそうです、

遠井吾郎

そして、その教えは掛布さんがその年、あの王貞治を打率で上回り、同年のベストナインに選ばれるという結果をもって、実証されたのです。

その翌年も大活躍を続ける掛布さんですが、本人はこう語っておられます。

「江夏豊、田淵幸一、遠井吾郎、藤田平中村勝広と、名前を出したらキリはないが、野球の話をしなくても野球を覚えることってあるんだよ」

と。

遠井吾郎のランニングホームランがスゴかった!

虎次郎
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「ランニングホームラン」、それは奇跡が折り重なって生まれると私は思っています。

どんなに俊足な選手でも、外野を深々と破って全力疾走したとしても、それはとても生まれるものではないのです。

ですが、その奇跡が折り重なった時、鈍重な選手であったとしてもそれは達成されるものなのです。

それは、1970年のオールスター第三戦で起きました。

4回裏、代打で登場した遠井さんの打球は、まるで火の出るような弾丸ライナーでした。

その打球はあっという間にライトの頭上を越え、深々と破り、全セの選手は遠井さんのツーベースを確信したそうです。

ところが、ここで奇跡が起きました!

ライトを守っていた、当時ロッテのジョージ・アルトマンがなんと転倒してしまったのです!

更に、センターを守っていた白仁天のカバーも遅れてしまうという、2つの奇跡が折り重なりました。

ボールが点々とする中、遠井さんはその巨体を揺らしながら全力疾走、三塁コーチも腕をぐるぐるとまわし、奇跡のランニングホームランとなったのです。

遠井吾郎

ですが、当事者である遠井さんは息を切らし、何とかベンチに戻ってくると選手一堂に一言、「死ぬかと思った…」とつぶやいたそうです。

決してスマートな体とは言えず、どちらかと言えば今でいうメタボリック体型であった遠井さん。

そんな彼は、プロ野球人生でたった一度だけのランニングホームランを成し遂げたのでした。

桧山・横田よ聞け!背番号24の前任者だった!

虎次郎
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阪神タイガースのその背番号には、数々のエピソードがあります。

とある選手の引退試合、阪神はクライマックスシリーズの真っただ中でした。

2013年の10月14日、すでに敗戦濃厚であった阪神の9回裏、すでに2アウトまで追い込まれていた阪神は、代打としてその人を起用しました。

遠井吾郎/江夏豊

出典https://www.sponichi.co.jp/

彼のフルスイングは154キロの速球を捉えてぐんぐん伸びていき、甲子園のライトスタンド、ポール際に突き刺さりました。

意地の一振り、引退試合に花を添える引退弾。

彼は満足げに、ベンチ前で当時阪神が行っていたパフォーマンスを行い、声援を背に甲子園のベンチ裏に消えていきました。

またある人は、2019年。

脳腫瘍の後遺症により、自分の打った球がどこに飛んで行ったのか見えなくなったり、打撃投手の投げた球が二重に見えたりと、重度の障害を患ってしまいました。

まだ24歳だった彼は、もうこれ以上野球を続けられないと思い引退を決意、その最後の球場は、阪神タイガースの二軍本拠地、鳴尾浜球場でした。

遠井吾郎/背番号

絶対に取り戻すと誓っていた背番号を背負い、センターから彼が放ったバックホームはまっすぐ、まさしくレーザービームと称されるような投球で、最後の公式試合に花を咲かせました。

その一球は、「奇跡のバックホーム」と人々の間で呼ばれるようになります。

その背番号は24,2013年に桧山進次郎が、そして2019年に横田慎太郎がつけていた背番号です。

なぜこの背番号が出てくるのか、それは遠井さんがその背番号24の前任者であったからです。

ビールが好きで、たばこが好きで、それでも野球が好きで。

20年間という現役生活のなか、野球ファンをその大いに魅了し、楽しませてくれた遠井さんの背番号を引き継いでいたこの二人もまた、我々野球ファンを大いに魅了してくれた存在だと私は思います。

2022年現在、背番号24はロハス・ジュニアがつけています。

彼もまた、何か特別なエピソードをこの背番号に付け加えてくれるのか楽しみですね!

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